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なぜ、「ぼっち=かわいそう」というレッテルを勝手に貼られるのか?

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自分、、、ぼっちかも。。。

最近の学生は「ぼっち」という言葉に対して異常なほどに敏感だったり、一人でいることを非常に恐れたりする傾向がある。SNSのおかげで、海外の人とも交流ができるし、誰がどこでどんなことをしているのか、ということまで知ることができる。結果、これまで以上に誰かと常に「繋がっている」という感覚を持つようになった。

当然、「ぼっち」は、マイナスのイメージで捉えられる。大学の食堂で一人で昼食をとったり、講義を一人で受けたりする学生に対して軽蔑の眼差しを向ける人は少なからずいる。

人間は「独り」だと寂しい生き物なのだろうか?「ぼっち」だとダメなのだろうか?現代の学生は少し他者と過剰に接しすぎているということはないだろうか?現代に取り巻く、この得体の知れない孤独に対する恐怖心を突き詰めていきたい。

まずは、近年の大学での「ぼっち」事情を見ていこう。

大学公認ぼっち専用「スピード席」誕生

一般的に大学の食堂というものは大テーブルが並び相席だ。しかし、本来は自由で使えるはずの食堂のテーブルをサークルが占領しているケースもある。結果、個人で利用できる雰囲気がない食堂もある。

いくつかの大学では、学生からの個人スペース確保のための要望や大学生協の回転率を上げようという経営戦略から「スピード席」なるものを導入している。このスピード席、スピードと名付けられている通り「急いでいる学生が使う席」としての機能を果たしている。例えば、お昼の時間のあとに講義や用事があるから学食で素早く食事を済ませたい学生が使用するのだ。

このような事情もあり、学生は以前よりも一人で食事をとりやすくなった。このスピード席を導入している大学は、京都大学や神戸大学、東京工業大学などである。しかし、このスピード席を荷物でキープするという違反を犯す学生もいるということで、まだまだ問題はありそうだ。ただ、違反を犯すくらいスピード席を使いたいということの裏返しであるから概ね成功だと考えていいだろう。

大学側が学生のニーズに応えて食堂を改善していくことは素晴らしい取り組みだ。ここでいう素晴らしいというのは、一人で食事をとる学生がマイノリティーであるにも関わらず、少数の声を取り入れた大学が素晴らしいと言っているのではない。ただ単に、大学側が近年の学生の動向を捉えて相応の対応をした点について素晴らしいと筆者は感じた。

では、今の学生に取り巻く「ぼっち」=「悪」といったような雰囲気はなぜ誕生したのだろうか。

私たちは「ぼっち=悪い」と植えつけられている

前ページの冒頭でも書いたが、SNSの誕生はますます「繋がること」の概念に拍車をかけた。SNSの恩恵は筆者も毎日受けているし、SNSが発達してからというもの、私たちのライフスタイルは大きく変わった。しかし、その変化が私たちを幸せにしたか?と考えると必ずしもそうではないだろう。

何よりも疑問を感じぜずにはいられないのが「フォロー数」や「友達」が多ければ多いほど良いという風潮である。なかには多数のフォロワーを持ったアカウントを売買するビジネスまで存在するという。私たちはあまりにも「繋がる」ことに時間を取られていないだろうか。そして、あまりにも「繋がり」過ぎではないだろうか。

人と繋がっていれば良いという根本的な風潮は、どうやらマスメディア等に植えつけられているような気がしてならない。映画、ドラマ、漫画、アニメなどは仲間の大切さを訴えかけるものも多い。そして、「一人でいることは辛い」「大切なのは仲間」といったような表現・シーンが繰り返される。

例えば、愛する誰かが死んで、その悲しみから救ってくれたのは仲間だったというお決まりの展開がある。一人でいることが良い、と伝えるメディアもほぼ存在しない。あまりにも流す情報が一辺倒過ぎる。

小説家であり工学博士の森博嗣氏は著書「孤独の価値」で以下のように述べている。

TVもアニメも小説も漫画も、この安易な「感動」で受けようとする。穿った見方をすれば、安物の感動である。(中略)このような「感動の安売り」環境に育った人たちは、それが感動的なもので、素晴らしいものだという洗脳を少なからず受けるだろう。思考停止がさらに進み、植えつけられたものがその人にとっての価値観になり、常識にもなる。

若い人ほど幼い頃からメディアに触れる機会が多い環境で育ち、「一人は寂しい」という常識が根付いてしまっているのだ。「あなたは誰かの友達」というキャッチコピーとその内容が話題となった某SNSのCMを覚えているだろうか。商業的な宣伝のために作られた言葉が、多くの人間の常識となった。私たちはメッセージ性のない感動を買う消費者にすぎない。

もちろん、友達が大勢いること、仲間と過ごして楽しいと思うことは当然であり、それはメディアやマスコミが作り上げた虚構ではない。他者と楽しみをわかちあうという感覚は大切なものだし、また他者といることを楽しんでいる人間を妬んではいけない。

しかし逆に、「ぼっち(これこそメディアが作り上げた単語)」を好む人間を「寂しいやつだ」と指差すことをしてはならない。一人でいることを楽しいと感じる人間もいる。この当たり前のことを現代人は忘れてしまっている。

情報社会の現代で生きる私たちは、あまりにも企業やメディアの意図した情報に触れる機会が多く、一種の刷り込みによって先ほどの風潮を鵜呑みにしてしまうのだ。

では、一人での楽しみや有意義というものを考えていこう。

一人でいることの価値ってなんだ?

賑やかなのは良いことだろうか?何か物事を落ち着いて考えたいとき、真剣に取り組みたいときに人の会話や生活音が聞こえる場所で、あなたは作業をするだろうか。

例えば、大学の図書館では「ぼっち」(あえてこの表現を使う)で勉強をしたり本を読んでいる人が多い。彼らは一見、寂しそうに見えるかもしれない。だが、利用人数は少ないわけではない。その空間では、彼らは少数派ではない。個が集まって、一定の静けさとそれを維持しようとするマナーがあるから図書館は成り立っている。

一人でいることのメリット、それは自分だけの考える世界や時間を持てるということだ。なかには大勢がいるところで作業する方が効率が良い、と思う人もいるだろう。それを否定する気はない。

ただ、一人でいるといろいろと考える時間が増える。一人の時間を利用して思索にふけったり、じっくりと音楽を聴く人は多いだろう。一人でいる状態というのは私たちにとって必要なものである。

自分の人生だ。好きにさせてもらうよ。

今回は、「ぼっち」でいることがどういうことなのかを取り上げた。そもそも「ぼっち」という言葉自体が虚構によって作り上げられた言葉であり、「ぼっち=悪」という風潮も間違っている。よく考えてみれば、一人でいる時間というものは誰にも訪れるものだし、それこそ他者と繋がり過ぎてはプライベートというものがなくなってしまうのではないだろうか。

最近では「ソロ充」「ぼっち充」という言葉が流行っているらしい。これもまた、メディアによって作り上げられた言葉である。考えにくいことではあるが、そのうち「仲間といること=傷の舐め合い」という風潮が生まれ「ぼっち」でいることが異常に推進される日がくるかもしれない。

これが正しいことなのかどうかはさておき、メディアによる洗脳の結果このような風潮が蔓延する可能性もゼロではないのである。私たちは改めて何が本当に正しいのか、自分自身で考える必要がある。

孤独とは一種の自由だ。周りに流されずに、己の生き方を貫くことはとても大切である。一方で、仲間と一緒に過ごすことも社会に生きる私たちにとって必要不可欠だ。ここに優劣をつけることはできない。「ぼっち」の時間と、「繋がる」時間。そのどちらも楽しむことができる人間こそが、本当に豊かな人生を送ることができるのだろう。

2015/02/25

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